祖母の死、そして私たちは
先日、祖母が亡くなった。
晩年は痛みに苦しみながらの闘病生活だった。
最期は祖父そして4人の子供(オレの親がその中に含まれるが)、同居の孫に看取られ亡くなったという。
祖母を毎日24時間、交代で看病し続けた家族には頭が上がらない。
週頭、上司と昼飯を食っているときに訃報を受け、仕掛の仕事を片付けて会社を飛び出した。
そして木曜まで通夜・葬儀に参列してきた。
先日、3月9日の日経夕刊の「波音」欄に、とても今の家族に伝えたいことが書いてあった。
詳しくはこちらを参照いただきたい。
http://kmo.air-nifty.com/kanamori_marketing_office/2007/03/post_8de3.html
一部抜粋する。
死は「情報化だ」と言った人がいる。
つまり、身体は死んでも、故人の思い出は情報として人々の中に残る、と。
これを「第1の死」と呼ぶならば、故人との思い出を語る人が途絶えたとき、
その人は「第2の死」を迎えるのだ、という。
これが本当の「死」だ、というのだ。
自分たちに対する慰めかもしれないが、故人の死は「第1の死」。
小さな頃から見つめてくれていた祖母の人間としての真面目さ、優しさは
私たちの心の中に、確かに残っている。